岩間流」
私の知る限り、開祖盛平先生がご存命中にこの言葉は在りませんでした。
何故に今は、世界の合気道にその言葉が行き渡っているのか?
紛れもなく、岩間に訪れた多くの内弟子から自然発声した事に始まりました。彼らは、今までとはまったく違う雰囲気の稽古を体験し、それに共鳴した者たちです。
開祖がご存命の頃、日本は戦争をはじめとする激動の時代にありました。
敗戦後、直ぐに入門した父(守弘)は、戦争から帰還して栃木県の自宅から岩間へ通う藤平先生と一緒に稽古をしていました。
その頃はまだ知名度も低く、海外からの内弟子は居ませんでした。
父は少しずつ内弟子を受け入れ、また、海外へ講習会に出掛けて行くようになりました。
他のお弟子さんにとって、戦後は食べることに必死な時代です。開祖から呼び出されても、自分の田畑を耕さなければ食べられません。やがて、少しずつ稽古から遠のく様になりました。
父と母は開祖ご夫婦に側仕えし、それはお二人が病に倒れるまで続きました。その間、様々な方が岩間に来ては開祖のお手伝いを申し出ました。ところが、誰もが数日、いや一日か二日も立たずに帰って行きました。それほど、開祖のお仕えは辛く厳しいものだったのです。
父にとって、開祖から直接、二人きりの稽古ができたことは幸運でした。
開祖に寄り添い、田畑のお手伝いをしながら合間に行う武器技の稽古が何よりも嬉しく、疲れが吹き飛んだ事でしょう。
開祖は、名古屋の柔道の先生の道場を訪れた折に、技に関して「私が居なくなったら、岩間に行きなさい」と仰ったそうです。開祖亡き後、その先生は父を指導に招き、直会の時に「開祖が仰せになった意味を今日理解しました」と述べられました。父は何の事かとたずねると、その時の開祖の言葉を初めて知り、涙が溢れて止まらなくなりました。この話は、しばしば父から聞きました。
19才より24年間、絶え間なく開祖に仕えた父や母を誇りに感じております。
開祖の心技、合気神社と茨城道場を守り、人生のすべてを開祖に捧げた父母に、あの世で会えた時、笑顔で再会したいと思います。
偉大な父、守弘師範の功績を讃え遺さなければ、開祖や両親に顔向けできません。
顕彰碑は、私一人で建てても意味が半減してしまいます。そこで、内弟子の皆さまの父に対する心と一緒に顕彰したいと考えました。制作費用などの詳細につきましては来年になってから追ってご連絡いたします。
皆さまのご協力の程、どうぞ宜しくお願いいたします。